「政治家が同性愛者を嫌うのは断罪し同性愛者を処罰する宗教は多様性と考えるのはいかがなものか」的なツイートが注目を集めていたので、それをきっかけに多様性について考えてみました。
同性愛を否定する政治家と宗教
話題となっていたのは以下のツイートです。
要するに同性愛者を否定するなら政治家だろうと宗教の教義に基づいたものだろうと一貫性ある認識をしなくてはダブルスタンダードで、後者を多様性としつつ前者を攻撃の材料に使っているのではという指摘と読み取りました。
リベラル云々とか政権への攻撃とか党派的な話は置いておいて。
荒井勝喜 首相秘書官が更迭。公職の個人的発言はどこまで許されるのかにも書きましたが、この件はいくらオフレコでもなんで職務に対する取材に個人的な回答をするんだよ。今言う事じゃないし、その個人的感覚を職務に持ち込んでいるなら公職としての資質に問題ありだぞという話だと思っています。
あの場で開陳する事自体がどうかしているとは言え、あくまで荒井氏個人の発言なら、特定個人・団体への誹謗中傷以外は好きにすればいいでしょう。
そして信仰に基づき同性愛者を嫌悪するのは多様性と受け入れ、にも関わらず個人的な嫌悪は受け入れないなら確かにダブスタだと思います。
私は荒井氏の発言は公職としての資質に欠けているという意味ではアウト、同性愛者を処罰する宗教は人権侵害でアウトだと思っています。
多様性とは他者を尊重する事
政教分離できていない国やそこに暮らす人は、国民や新しく生まれた子供に対し特定の宗教を実質強制している事がかなり多いはず。だから私は世の多くの宗教が嫌いです。
同性愛が神に許されないとか国に認められてないとか、場合によっては死刑になるとか、女性の権利は男性のそれとは違うとか、そういう実情を思春期前の子供にきちんと説明した上で選択させているのでしょうか。
信教の自由のない国はかわいそうだなと思いますし、日本だって人権侵害は日常茶飯事です。子供の頃にエホバの証人として親と一緒に布教活動していたクラスメイト、あの子は本当に自分の意思で入信したのだろうか。
問題なのは、
- 信仰/感情/行為等々を他者に強制する事(強要)
- 思想/属性/性別等々を理由に排除する事(差別)
だと思います(ただ差別に関してはとても難しく、個人の体験からくるどうしようもないトラウマや、女性専用車両など現実的にやむを得ない対策もあり得ると思っています)。
◯◯を信じろ、◯◯を嫌え、◯◯を怖がるな、と。
◯◯信者だから不採用、◯◯人だから契約不可、性別が◯◯だから信用できない、と。
これは宗教だけに限りません。一部の宗教はどちらの問題も孕んでいる可能性があるというだけで、要するになんであれ他者を尊重すればいい話です。それが多様性ではないでしょうか。
何が好きでも嫌いでもそれを他者に強制したりそれを理由に排除したりしなければお互いを尊重できると思います。
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